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結局、どこかで合流する

更新日:2月3日

結局、どこかで合流する。──写真から始めた私が迷宮に迷い込む理由


私のクリエイティブの原点は、幼少期に描いていた絵でした。



でも、今の仕事をしているきっかけになったのは多分、写真です。


ファインダー越しに世界を切り取り、四角いフレームの中に光と影を収める。その「一瞬」を綺麗に残すことに魅了されたのが、すべての始まりです。


というと、聞こえはいいですが、会社員時代に制作部署とのクリエイティブの戻しがうまくいかなくて、学びはじめたのがきっかけです。


言語化できてないから、知識がないことが原因で、想いがカタチにできてないと感じたから。


そして超辛口の上司に資料に入れたスマホで撮った写真を「写真はいいじゃん」って褒めてもらえたのが嬉しかったから、頑張っただけ。だと、振り返ればそう想います。


しかし、現在のような仕事の形態を歩みを進めるうちに、私はある種の迷宮に迷い込むことになりました。


それは、「鶏が先か、卵が先か」というような、終わりのない循環の問いです。


良い写真は「デザイン」なのか、デザインが「写真」を作るのか


写真を撮り続けていると、必然的に「構図」や「構成」の壁にぶつかります。


余白をどう取るか、視線をどこに誘導するか。


そもそも何を撮るのか。


被写体を美しく見せるためのルールを追い求めていくうちに、私はいつの間にか「デザイン」の領土に足を踏み入れていました。


ここで最初の「鶏と卵」が現れます。


完璧な構図で撮られた写真があるからデザインが完成するのか、それとも、優れたデザインの設計思想があるからこそ、シャッターを切るべき瞬間が見えてくるのか。


情報の優先順位や規律を学ぶほど、写真そのものの「見せ方」が変わっていくのを実感しました。


結局、写真という素材を極めるためには、デザインという料理法を知らなければならなかったのです。



「絵画」という、写らないものを描く力

さらに深く潜ると、今度は「絵画」の視点が必要になります。


写真は現実を写すものですが、光の捉え方、色彩の調和、あるいはあえて現実をデフォルメする感覚を磨こうとすると、クラシックな絵画の知識に突き当たります。

そしてデッサン力。

ものを見る力をつけなければいけない。



「絵画のような写真を目指すのか、写真のようなリアリティを絵画に求めるのか」 これもまた、どちらが正解とは言えません。



キャンバスにゼロから形を作る画の苦しみを知ることで、目の前の景色から要素を削ぎ落とす写真の精度が上がる。


デザイナーとしてビジュアルを組み立てる際、絵画的なリズムや選択肢が、写真の選択や加工に深みを与えてくれることに気づいたのです。



「映像」という、流れる時間へ

そして言わずもがな時代は静止画から映像に。

仕事をしていて映像という時間軸の表現とも対峙しなければいけなくなります。 映像は、いわば写真の連続です。


一枚一枚のショットを完璧に撮る技術は大事です。しかし、それだけでは物語になりません。


「完璧な一瞬を繋ぐから良い映像になるのか、良い物語を撮ろうとするから一瞬が輝くのか」 


ここでもループが起きます。


静止画の構図を知らなければ映像は散漫になり、映像の文脈を知らなければ写真は説明不足になる。

商業的な動画制作を求められた時、必ず、ストーリーテリングや企画の重要性が必要になる。


デザイナーとして動画を扱うとき、私は写真を撮る自分と、これまた別の視点を持つ自分の間を行ったり来る必要があると気づきます。


境界線を溶かし、循環の中に生きる


向き合うほど、その境界線は邪魔なものになっていくんだろうなと思います。

邪魔というか、境界線を溶かさないといけない。


写真、デザイン、絵画、映像。


これをビジネスの世界ではよく「クロススキル」という言葉を使いますが、金銭や評価を得る為にクロスさせるというよりは、

一つの領土を深掘りすれば、自然と必ず隣の領土の根っこに触れてしまうのではないかと思うのです。


そして今、私はもう一歩、深い場所へ踏み込もうか、少し迷っています。


浅くは終わらない・・・境界線を跨ぎたくなってくることがなんとなくわかるからです。


これまでは表面の美しさや伝わり方を追求してきましたが、今はその背景にある骨組みそのもの、人がその中で呼吸し、時間が流れる「理(ことわり)」を体系的に掴み取りたいという衝動に駆られています。


それは、感性という頼りないものに、揺るぎない構造という裏付けを与える作業です。


鶏が先か、卵が先か。 その答えはきっと出ません。


けれど、その終わりのない循環を楽しみながら、あえて「専門外」の扉を叩き続けること。


感性を支えるための強さを学び、表現の根幹にあるルールを味方につけることがいいのか、悪いのか。


新しい「理」を学べば学ぶほど、自由なものがルールに縛られてしまうのではないか。


感性を優先すれば構造が疎かになり、構造を優先すれば表現が冷たくなってしまうのではないかという不安。


あちらを立てればこちらが立たず。


すべてを知ろうとすることが、かえって自分を迷わせているのではないか。


何にもなれないのではないか・・・一歩進むたびに、そんな迷いもあり。


美しさを支えるための強さを学び、表現の根幹にあるルールを味方につけること。



「立ち止まって迷う時間さえも糧にしながら、この境界線が溶け合う先を自分で見届けたら?」って


「悩むことじゃないよ」


って


さっきアドバイスをもらったので・・・。


忘れないように。


思わず、この終わりのない文章を書いています。




 
 
 

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